200530 電車に乗って
思ったよりもガラガラの電車。3人がけの席が空いていたので座ると、結局新宿まで隣に座る人は現れなかった。乗り換えて山手線。さすがに座れるかどうかくらいのスペース感だったけど、記憶にある車内に比べれば十分「少ない」に入る乗車人数だった。
電車では旧世代のAirPodsを耳にさす。音を大きくしてもなかなか音楽が聴こえづらいので、音量をいつもより3つくらい上げる。電車ってこんなにうるさかったかなと思ってふんわり車内を見渡すと、ほとんどの窓が開いていた。そりゃあうるさくもなる。
思えば、同居人以外の他人の目を気にしないで2ヶ月ほど生活をしていたわけで、まったくの他人という存在の妙なリアリティのなさ、居心地の悪さは感じた。自室では鼻歌をならしたり、空想を口に出すのも自由だったので、なにか自分から物語やよからぬ考えが漏れ出て他人に伝わってるんじゃないかと心配になってみる。そんなことは今までもありえなかったので、ない。
目的地である渋谷の駅はハチ公側の改札すら変わっていた。すらというか、やっとというか。
小一時間空きができて、暑かったのでカフェでアイスコーヒーを頼む。コーヒーを持って着席。お店で何かを飲むなんて本当にひさびさ。席自体も減らされていて、5人くらい座れそうなスペースにイスが3脚しかない。他に席は空いておらず、両端はすでに人がいたので、真ん中に着席した。
隣は背中を丸めて課題を進めているらしい女子高生で、警戒されたのか、それともパーソナルスペースを侵してしまったのか(おそらく後者)、隣に座りやがったわたしに向けて威嚇するように一つひとつの動作ごとドタバタと音を立てていた。
ふと、今は画面越しでしか会わない職場の先輩を思い出す。動作のたびに音を立てるので、最初の頃は怒っているのだと思ってビクビクしていた。怒っているのではなく、単純に音を立てる方の人なのだと気づくまでに時間はかからなかった。
女子高生に対して、威嚇されてるな、でもその気持ちもわかる、ごめんね、と思いながら、余裕みたいな顔して長嶋有『愛のようだ』を読み進める。
所用を済ませて帰宅。ぼんやりと過ごして、楽しみにしていたNHKのリモートドラマ『Living』をリアルタイムで見る。NHKがいいのはCMがないところだなと思いながら、広瀬姉妹の第一話、永山兄弟の第二話をみる。ながら見の1回だと理解が追いつかず、録画でもう一度。
こちらは入れ子構造の物語。
主人公の作家(阿部サダヲ)と、締め切りをけしかけるドングリが現実(仮)の登場人物で、作家が描くストーリーに、各話さまざまなキャストが登場する。
「人間の長所とは?」「人間って必要?」っていう問いからスタートした広瀬姉妹の方、2人はネアンデルタール人という設定。ネアンデルタール人だということにアイデンティティを持っている2人とホモサピエンスとの関わりから人間の無駄さと愛らしさが浮かび上がる、ちょっとラブリーな話だった。「ちょっと悪くてちょっとかわいい」。覚えとこう。
永山兄弟の「国境」、15分に詰め込まれた(各話15分という設計)テーマが、みぞおちにあとからずしっとくるような話。不条理。令和の次の時代に生まれた兄弟という設定だけど、偉い人が決めたとか、どうせ失敗するとか、とにかく社会的な強弱を感じざるを得ない言葉が並ぶ。極め付けの「紙の色」「戦争」。「とりあえず」「悲しい」という言葉さえなくなった世界で、あの兄弟たちは何も疑問を持てずに生きていると思うと…。「昔の食べ物を食べたい人がいる」から「昔の食べ物を作る仕事がある」という理解の世界では、戦争だって…同じ理解で済ますことができる。何かを愛する気持ちだけが救いだったけど、その愛のまさかの行方にもしょうがないと笑わなきゃいけないのが、辛くて。
コロナの期間中、序盤は震災を思い出して泣けていたけれど、体も慣れたころにはこの状況がいくら辛くても、もう泣けなくて、その身体性と感情の不通感を、改めて実感させられた気がする。
めちゃくちゃにダークサイド。寝よう。