日記

会社員の女

210102 地続きでいい2021

年が明けました。

Twitterで「メンタルが弱い人は年末年始のイベントに過剰に色付けしない」方がいいと書かれている方がいて、確かになと思って実践している。メンタルが弱いというか、外的要因に左右されてぶち上がったり地に落ちたりしてしまうので、今年のお正月のテーマは「凪」とした。まわりが正月らしく過ごしたり、2020年をまとめたりしていても、とりあえず何もしない。今年に向けて何かするのであれば、旧正月合わせで行うくらいのペースでやっていきたい。

ということで、お正月スペシャルのバラエティやドラマを見る以外はそれっぽいことをせず…。一年の計は元旦にありとはいうものの、30日に仕事を納め、2日から仕事も入ったので何か考える余裕もなく、日常のペースはそこまで崩れずにいられている。疲れているけど三ヶ日が終わっても、メンタル崩壊しないですみそうなのは良い。

とはいっても普段より時間が空いたり、移動が長かったりしていたので、今年に入って3冊の本を読んだ。そんな中でも一冊がめちゃよかった(あとの2冊はビジネス関連。正直今の自分にはフィットしなかった)。

『71歳パク・マンネの人生大逆転』

韓国のYouTuberパク・マンネさんと孫のキム・ユラさんの人生とYouTubeとの出会いが語られる。幼い頃に満足に勉強をさせてもらえず、最低野郎と結婚をし、自ら家族を支え、働き続ける。それが人生の結末だと思っていたおばあちゃんが、孫ととともにYouTubeに出会って人生が変わっていく話。

何歳からでも人生は変えられるという希望に溢れたメッセージはもちろんだけど、何よりマンネ氏が世界に出会って率直に感動している姿がありありと浮かぶ。初めてのオーストラリア旅行の描写からすでに心を掴まれる。わたしたちが見聞きして知っているつもりになっている世界を、体で味わって、知らないことを恐れずに果敢に挑む姿。無邪気にこの世界そのものを受け入れて、水を得た魚のように世界各国ではしゃいでこの世のモノを自分の中で意味づけしていく姿が頼もしい。わたしたちってこの世界をどれだけ咀嚼しているつもりになってたんだろう? ってなる。

同時に、マンネ氏は「なんでわたしに勉強をさせてくれなかったの?」って、何かがある度にいうんだよね。その言葉が切なくて。マンネって末っ子って意味らしいんだけど、末っ子でしかも女の子…勉強なんかさせたら嫁の貰い手がないとかそんな悲しい理由で学校に通えなかった描写がある。「学ぶこと」が選択できないこと…どういったらいいのか難しいけど、あってはいけないことだなと改めて思う。実際あるんだけど…生まれた奇跡の上である程度選択肢を持てている側だから、反省したよね。

 

あと、逃げ恥見た。

めちゃくちゃ安心して見られた。令和3年のドラマ番組の倫理的な放送可能ラインはこの作品にしてほしい…。

とはいえ、主人公の2人や周辺人物がしっかりと最適解を選んだり、他人の選択を受け入れたり、あり方を理解している姿を見て、みんな恵まれているなぁと思ったのも事実。

家事を自動化・アウトソーシングできて、手術や出産方法を選べること、夫の育休の申請を会社に受け入れてもらえること、理解を進めてくれる先進的な同僚、同性のパートナーとの暮らしや男のしんどさに理解のある社会的立場のある人物…等々に「選ばれし民」感は悲しいかなある。ちょっと羨ましいなと思って、現代を描いているドラマだけど、自分から見るとちょっと遠くの未来だと思った。

それらが「選ばれし民だけが選べるもの」ではなくなる日が来ることの期待を大きく込めて…、令和初期の最高正月ドラマだったといいたい。

説明的だのフェミがどうだの言ってる人いるけど、野木亜希子さん脚本のドラマに説明的な掛け合いがなかったら説得力が違うし(むしろそれが聞きたいし、その上で何気ない一言にまで気配りやウィットがあるからいいわけで…)みんながおうちにいる三ヶ日の夜9時台に問題提起ありがとうだよ。ありがとうございます!!!

とにかく、選択肢が多様であることって強者なのかなとか思ったり…その不均衡についても考えさせられる2作品に年始早々出会ったな。

ていうか、選択的夫婦別姓はよ!

200601 雨の6月

低気圧を感じる。自分の中身が溶け出ていそうな6月の始まり。偏頭痛持ちにとってカフェインは味方、コーヒーを流し込んで仕事を進める。

 

明日はひさびさに出社するので、自宅に持ってきておいた方がいいものをあれこれ考える。あれよという間に出社禁止になったので、いろいろと仕事道具が自宅には足りていないのだった。リュックを背負うのもひさびさだから、単純に忘れ物も不安。機材類、書類、申請物…なんだか悲しくなってきたので、考えるのを一旦やめよう。

 

この期間、いままで蔑ろにしていた…というか、愛しているからこそ許してもらって放置していた大切なものが人生のウェイトを占めだしてきてしまった。友人や読書、暮らし、誰かに好意を感じること。家からわざわざ出るのであれば、そんなものと一緒がいい。自分の都合と仕事の都合のみで生きるのは、やっぱりしんどいなと思う。

 

ていうか、ハイパーハードボイルドグルメリポート、番組おもしろ。

 

晩ごはんはとうとうUber。雨は疲れる…雨の日に頼んでごめんね。運動するから許して。

 

カフェに行きたい。パフェも食べたい。肉も食べたい。やりたいことたくさんある。20代半ば、夏が始まる。

200531 この日々の証明

明日から東京都はステップ2。なんだそれ、と思いながら、本日は同居人と少しだけ出かける。雨に降られながら、傘も持っていないので足早に駅へ。「改札ピッてすんの2ヶ月ぶり」とつぶやく同居人に「それ昨日のわたしだわ」と、謎の先輩ヅラをかまして新宿。不要不急のお出かけである。

 

正直、賞味期限を終えた日のスナック菓子のように、5月31日が6月1日になったといって、何か大きく変わることはないのだ。多分起きる第二波、第三波に備えるために家を出た、そんな気がする。新宿への電車の中では、家で話しているようなくだらないことを言い合いながら、「こんなくだらなすぎる(本当にくだらない、もはや屁のような)思いつきの話を他人がいる電車でするなんて、いままでだと考えられなかった」と、思っていた。やっぱり、他人というものへの境界線があやふやになっている感覚がある。

野暮用を済ませて、ついでに買い出し。収納ケースや家でのエクササイズ用にスポーツウェアなど。それなりに買って、帰り道は荷物の重量で手がやられる。今後、やっぱりネットショッピングがメインになってしまうかも…と、弱気になる。

 

大荷物を抱えて家に帰り、もろもろを収納。いい感じに収まった。

コロナ以前を振り返れば、本当に家に必要なものが揃ってなかった。それでもお互い激務なので、生きていけただけ。布団があって帰り道にコンビニがあればそれでよかった。

家にずっといるとなってからは大変。散乱していた本を片付けるための本棚、ランドリー系の小物をしまうための棚、適当な箱を使っていたテレビボード、レンジ台、イス、部屋着、そしてUber eatsも馬鹿にならないので、家で食べられるもの、食材や調理器具などなど、3年も暮らしていてちょっと困っていたけどなんとかやり過ごしていた部分にテコを入れた。いまはなんとか、生きるというより、暮らすという形を作れている気がする。

 

まぁ、そんな0531なわけだけど、今週のハイライト、MacBook Proが届いた。なんでこんなに高揚するのだろう。はるばる上海から、こんなときなのに来てくれてありがとう。思わず開封動画も撮ってしまう。しばらくよろしく。US配列にしてしまったので、慣れるまではこのブログもPCで書くか〜。

 

このMacBookを見ていつか、これが届いたときには自粛モードだったなぁと思うのだろうか。この日々をともに走り抜けていくパートナーのひとりとして、わたしはPCを選んだのだ。

200530 電車に乗って

思ったよりもガラガラの電車。3人がけの席が空いていたので座ると、結局新宿まで隣に座る人は現れなかった。乗り換えて山手線。さすがに座れるかどうかくらいのスペース感だったけど、記憶にある車内に比べれば十分「少ない」に入る乗車人数だった。

 

電車では旧世代のAirPodsを耳にさす。音を大きくしてもなかなか音楽が聴こえづらいので、音量をいつもより3つくらい上げる。電車ってこんなにうるさかったかなと思ってふんわり車内を見渡すと、ほとんどの窓が開いていた。そりゃあうるさくもなる。

思えば、同居人以外の他人の目を気にしないで2ヶ月ほど生活をしていたわけで、まったくの他人という存在の妙なリアリティのなさ、居心地の悪さは感じた。自室では鼻歌をならしたり、空想を口に出すのも自由だったので、なにか自分から物語やよからぬ考えが漏れ出て他人に伝わってるんじゃないかと心配になってみる。そんなことは今までもありえなかったので、ない。

目的地である渋谷の駅はハチ公側の改札すら変わっていた。すらというか、やっとというか。

小一時間空きができて、暑かったのでカフェでアイスコーヒーを頼む。コーヒーを持って着席。お店で何かを飲むなんて本当にひさびさ。席自体も減らされていて、5人くらい座れそうなスペースにイスが3脚しかない。他に席は空いておらず、両端はすでに人がいたので、真ん中に着席した。

隣は背中を丸めて課題を進めているらしい女子高生で、警戒されたのか、それともパーソナルスペースを侵してしまったのか(おそらく後者)、隣に座りやがったわたしに向けて威嚇するように一つひとつの動作ごとドタバタと音を立てていた。

ふと、今は画面越しでしか会わない職場の先輩を思い出す。動作のたびに音を立てるので、最初の頃は怒っているのだと思ってビクビクしていた。怒っているのではなく、単純に音を立てる方の人なのだと気づくまでに時間はかからなかった。

女子高生に対して、威嚇されてるな、でもその気持ちもわかる、ごめんね、と思いながら、余裕みたいな顔して長嶋有『愛のようだ』を読み進める。

 

所用を済ませて帰宅。ぼんやりと過ごして、楽しみにしていたNHKのリモートドラマ『Living』をリアルタイムで見る。NHKがいいのはCMがないところだなと思いながら、広瀬姉妹の第一話、永山兄弟の第二話をみる。ながら見の1回だと理解が追いつかず、録画でもう一度。

こちらは入れ子構造の物語。

主人公の作家(阿部サダヲ)と、締め切りをけしかけるドングリが現実(仮)の登場人物で、作家が描くストーリーに、各話さまざまなキャストが登場する。

「人間の長所とは?」「人間って必要?」っていう問いからスタートした広瀬姉妹の方、2人はネアンデルタール人という設定。ネアンデルタール人だということにアイデンティティを持っている2人とホモサピエンスとの関わりから人間の無駄さと愛らしさが浮かび上がる、ちょっとラブリーな話だった。「ちょっと悪くてちょっとかわいい」。覚えとこう。

永山兄弟の「国境」、15分に詰め込まれた(各話15分という設計)テーマが、みぞおちにあとからずしっとくるような話。不条理。令和の次の時代に生まれた兄弟という設定だけど、偉い人が決めたとか、どうせ失敗するとか、とにかく社会的な強弱を感じざるを得ない言葉が並ぶ。極め付けの「紙の色」「戦争」。「とりあえず」「悲しい」という言葉さえなくなった世界で、あの兄弟たちは何も疑問を持てずに生きていると思うと…。「昔の食べ物を食べたい人がいる」から「昔の食べ物を作る仕事がある」という理解の世界では、戦争だって…同じ理解で済ますことができる。何かを愛する気持ちだけが救いだったけど、その愛のまさかの行方にもしょうがないと笑わなきゃいけないのが、辛くて。

 

コロナの期間中、序盤は震災を思い出して泣けていたけれど、体も慣れたころにはこの状況がいくら辛くても、もう泣けなくて、その身体性と感情の不通感を、改めて実感させられた気がする。

 

めちゃくちゃにダークサイド。寝よう。

200529 レモンがありますね。

昨日はなんだか疲れてしまい、ぐーすか寝ていた。忙しない脳みそがぱたっと切れて寝てたみたい。

 

最近知り合った人と、一通り坂元裕二作品の話で盛り上がる。『それでも、生きてゆく』以来、大体秋から冬にかけて、坂元裕二の作品を心待ちにしている。ドラマから離れると言っていたけれど、明日からNHKで『Living』放送。楽しみ過ぎる。大好き。大好き。大好き。

カルテットをみて、軽井沢に行ってしまったことをふと思い出す。夏に行ったほうがいいのかもだけど、寒くなった頃の軽井沢、よかったな。

 

夜ご飯はキャベツと納豆。砂肝焼いたやつ。

 

レモンが、ありますね。

200527 引き受けるもの

人はたくさんのグラデーションのなかにあるし、それぞれ違うことにやっぱり驚く。和解どころか、対話さえできないと思う人もいるんだけど、だからこそ、自分の中に生まれた思想も信条も大切にしたっていいし、変わっていったっていいじゃないか。とか思うけどね。大人を引き受けるのも悪いことばかりじゃない。愛。

 

大人になったって、繊細に何かを感じたり、燃え上がるような恋愛をしたり、朝まで遊んだり、おいしいものをおいしくたべたり、ごっこ遊びみたいに楽しんだり、できるよ。他人に気を遣いながら、それでも非常に楽しく生きていける。他人を尊重しながら自分を尊重することだって可能だと、爆烈な感情を持て余していた思春期のわたしに伝えたい。何かをきっかけに自分の心を傷つけすぎることがあるけど、大丈夫なんだぜ、そんなことしなくても。しちゃうけどな。

 

いい大人であるはずの故郷の父は右傾化しています。ときどき会話にならないその人とどう向き合うべきかは、すごくすごく考えるところ。でも昔と違い、経済的に自立したことで、無理に敬うことをしなくてもいいかなと思っている(経済的に自立したことがわたしの場合きっかけになっただけで、してなかろうと敬わなくたっていい。何を信じて尊敬するかなんて自分次第、心は自由だ)。いままでの感謝と、その人自身への思いは別で、共存したっていい。

 

ところで、本日は百人一首の日だと聞いた。

わたしが大学で日本文学研究の道を選ぶに至ったきっかけの作品はさまざまあって、その一つが百人一首だったなぁ。その一首一首を眺めるだけでも、いきいきと文字が踊っているよう。情景が浮かぶ。もうすぐ「春過ぎて」の季節になります。『ちはやふる』も好き。もしかして上京前から連載が続いてるんじゃなかろうか。

万葉集のような世界から現代短歌に至るまで、31文字の世界には深く深く魅了されている。

 

わたしは短歌を詠んだことはないのだけど、当意即妙の逸話がある小式部ちゃんや清少納言の伸びやかな筆致に憧れていたりする。

200526 読書記録はどこに

グレーがかった1日。仕事が思ったように進まない。昼間、しばらく声が聞こえてこなかった野良猫の声がしたので安心する。鳴き声が特徴的で、にゃあではなく「わー」というので、同居人と一緒に「わぁ」と呼んでいる。わぁがいるよ! と、同居人に伝える。

 

Webサービスとしてnoteが生み出されたとき、わたしは大学生でWeb系の企業にインターンに行っていたり、その流れでそういう世界が好きになっていた頃(というか、中高時代を辿っても、もともと好きなんだ。インターネットが)だったりで、なんだかんだそういうトレンドに敏感だった。

画期的だしおしゃれだと思っていたけれど、UIが微妙で、なんか書くこと自体も激重だったnoteの黎明期、それでも楽しかったんだけど。

 

最近のnoteは乗り切れないビジネス色が強くって、その上、厚く「ポジティブ」にコーディングされているようで、なんだか居心地が悪い。うさんくささなんていったらダメかな。いろんな人の記事に飛べるようになっている分、なんだか危うい記事も目につくようになってしまっている気がするんだけど、その辺どうだろう。noteのサービスサイドとしての気持ちは特にないのかな。

ハッシュタグ検索などもできたり、企画が走ったり、コミュニティの面白さもある気がするんだけど…何度か開設しているけど、あのちゃんとしなきゃいけない空気に気圧され、いまいち書く気になれない。

 

今日ひょんなことで2020年上半期のしいたけ占いを見返したら、天秤座の欄に「SNS」が鍵になると書いてあった。それがなんだと思うけど。

 

夜は舞茸と挽肉が余っていたので、野菜と切り刻んで炒めてそぼろ丼。植本一子さんがきゅうりを炒めていた写真を見ておいしそうだったので、今度やって見たい。

 

ふと恋愛のことも考える。わたしの恋愛志向はデミロマンティックというらしい。